旧六合村の夢の跡その1
2012年 07月 19日
先日,恒例の地理学実習がありました。
実習2日目の午後,
いろいろ見聞きしてきたことをご報告。
六合(くに)村は,
2010年中之条町と合併したため,
村としてはなくなり,
中之条町六合地区となっています。
草津白根山の山麓にある
草津温泉の東側に位置し,
緑豊かで,のどかな農村です。
ところが旧六合村は,
太平洋戦争末期から昭和40年代にかけて,
鉄山開発,野反ダム建設といった
第二次産業が盛んで
今の様子とはまるで違っていたのです。
その一つの象徴が,
すでに廃線となった
国鉄長野原線(現吾妻線)の
長野原(現長野原草津口駅)-
太子(おおし)間といえると思います。
現在JR吾妻線は,長野原から吾妻川に沿って
大前まで延びていますが,
そもそもは渋川から長野原を経由し,
旧六合村の太子までの路線を
つくるために線路が敷かれたのです。
敷かれた時期は太平洋戦争末期の頃。
なぜ,わざわざ太子まで線路を引き,
しかも太平洋戦争末期という
鉄が不足していたこの時期に線路を引いたのか?
実は,鉄が不足していたから
この路線を設置したのです。
旧六合村の元山というところで,
低品位ながら鉄鉱石の鉱山があり,
群馬鉄山と呼ばれていました。
鉄鉱石を輸入できない戦争末期
なけなしの鉄を利用してまでも
鉄鉱石を運搬する必要があったのです。
で,能書きはここまでにして,
その旧太子駅にいってきました。 行き方は簡単。
重要伝統的建造物群保存地区「赤岩集落」へ行く橋を
渡らずに橋のたもとの道を左に行って
しばらく平坦でまっすぐな道を進めば
旧太子駅に到着。
この平坦でまっすぐな道が廃線跡なんですけど。
この場所がなにやら駅くさいなぁと思っていましたが
確証が持てませんでした。
地元の方がいたのできいてみると,
旧太子駅であっているとのこと。
この方の話が面白かったので
小一時間ぐらい立ち話。
戦後直後から現在までの
太子駅周辺の盛衰を全部知っているとのこと。
話を伺った後,
4年のSa君と,2年のNさんから
聞き取りが終わったとの連絡があったので
二人を連れてここにやってきました。
で,「知ったげ」(知ったかぶりという広島弁)に
地元の方の話の受け売りで
二人に説明をしました。
太子駅の駅舎の隣にあったトイレ。
駅舎はこれと同じような切妻式で,写真左側に駅舎があったとのこと。
山際にあるコンクリートの廃墟。
屋根に穴が開いていますが,
ここから鉄鉱石を落としていました。
Sa君が立っている場所に
無蓋車をいれて
鉄鉱石を積み込んだのです。
聞き取りの内容は,箇条書きにて
・もともとは鉄鉱石を川崎にある製鉄所へ直接運んでいたが,
硫黄分を多くむ鉄鉱石であったため,
その硫黄分を取り除くための焼結工場とのこと。(これは『白根火山(下谷昌幸著)』から引用))
・元山にある群馬鉄山からは索道で鉄鉱石を運んで,
太子駅で貨車に積み替えた。(さきほどのコンクリの構造物のところ)
・製錬所の煤煙がひどく,今見えている山はすべてはげ山と化していた。
・そのため早くから公害訴訟が行われていた(安中公害訴訟よりも早かった?)
・戦時中は朝鮮人に強制労働をさせていた
・戦後は野反湖ダム建設もあって駅周辺はものすごい活気があった。
・ダム建設で使われたブルドーザーは解体されて,
鉄道の貨物で運ばれてきた。駅近くで組み立てなおして,
白砂川の河床に下りて,河床をすすみ,○○から道を進んだ。
・駅近くに映画館もあった。
・野反湖ダムができた後,ハイキングブームで
たくさんの観光客がきて,バス15台ぐらい列をなしていた
・バスに乗りきらない観光客はトラックではこんだ。
・観光客が捨てた弁当ガラを拾いに乞食があつまっていた。
そのあと,最近元山の旧鉄山が一般に開放されたので
いってみてはどうかと勧められました。
ということで,第2部は旧鉄山編。
ところで,なぜ太子まで線路を引いたのか?
索道の設置が,コストがかからないのであれば,
長野原まで索道を引けばいいはず。
逆に鉄道の方が,コストがかからないのであれば,
鉱山まで線路を設置すればいい話。
なぜ中途半端な太子に終着駅を作ったのか?
ここより上流は白砂川沿いでは
河成段丘が点在するようになり,
段丘がないところは峡谷状を呈します。
なので,鉄道を設置するためには,
橋をかけたり,法面を切り崩したりと
結構な大工事が必要となります。
ちなみに,太子まで白砂川沿いに
段丘面が連続的に発達していて,
そこまで大掛かりな土木工事は不要。
なので,
大規模な工事を伴う線路設置<索道<段丘面上の線路設置
という図式が得られそうです。
平坦なところでは,線路を敷くだけなので
安くしかも簡単に敷けるから、
できるだけ敷く。
それが無理なところからは,
次善の策として索道にしたと
考えるといいかなと思いました。
そういえば,索道の線の跡が
米軍撮影の戦後直後の空中写真に残っていましたので
また今度アップします。
長文になってしまい,
U先生に不評を買いそうですが。
実習2日目の午後,
いろいろ見聞きしてきたことをご報告。
六合(くに)村は,
2010年中之条町と合併したため,
村としてはなくなり,
中之条町六合地区となっています。
草津白根山の山麓にある
草津温泉の東側に位置し,
緑豊かで,のどかな農村です。
ところが旧六合村は,
太平洋戦争末期から昭和40年代にかけて,
鉄山開発,野反ダム建設といった
第二次産業が盛んで
今の様子とはまるで違っていたのです。
その一つの象徴が,
すでに廃線となった
国鉄長野原線(現吾妻線)の
長野原(現長野原草津口駅)-
太子(おおし)間といえると思います。
現在JR吾妻線は,長野原から吾妻川に沿って
大前まで延びていますが,
そもそもは渋川から長野原を経由し,
旧六合村の太子までの路線を
つくるために線路が敷かれたのです。
敷かれた時期は太平洋戦争末期の頃。
なぜ,わざわざ太子まで線路を引き,
しかも太平洋戦争末期という
鉄が不足していたこの時期に線路を引いたのか?
実は,鉄が不足していたから
この路線を設置したのです。
旧六合村の元山というところで,
低品位ながら鉄鉱石の鉱山があり,
群馬鉄山と呼ばれていました。
鉄鉱石を輸入できない戦争末期
なけなしの鉄を利用してまでも
鉄鉱石を運搬する必要があったのです。
で,能書きはここまでにして,
その旧太子駅にいってきました。
重要伝統的建造物群保存地区「赤岩集落」へ行く橋を
渡らずに橋のたもとの道を左に行って
しばらく平坦でまっすぐな道を進めば
旧太子駅に到着。
この平坦でまっすぐな道が廃線跡なんですけど。
この場所がなにやら駅くさいなぁと思っていましたが
確証が持てませんでした。
地元の方がいたのできいてみると,
旧太子駅であっているとのこと。
この方の話が面白かったので
小一時間ぐらい立ち話。
戦後直後から現在までの
太子駅周辺の盛衰を全部知っているとのこと。
話を伺った後,
4年のSa君と,2年のNさんから
聞き取りが終わったとの連絡があったので
二人を連れてここにやってきました。
で,「知ったげ」(知ったかぶりという広島弁)に
地元の方の話の受け売りで
二人に説明をしました。
太子駅の駅舎の隣にあったトイレ。
駅舎はこれと同じような切妻式で,写真左側に駅舎があったとのこと。
山際にあるコンクリートの廃墟。
屋根に穴が開いていますが,
ここから鉄鉱石を落としていました。
Sa君が立っている場所に
無蓋車をいれて
鉄鉱石を積み込んだのです。
聞き取りの内容は,箇条書きにて
・もともとは鉄鉱石を川崎にある製鉄所へ直接運んでいたが,
硫黄分を多くむ鉄鉱石であったため,
その硫黄分を取り除くための焼結工場とのこと。(これは『白根火山(下谷昌幸著)』から引用))
・元山にある群馬鉄山からは索道で鉄鉱石を運んで,
太子駅で貨車に積み替えた。(さきほどのコンクリの構造物のところ)
・製錬所の煤煙がひどく,今見えている山はすべてはげ山と化していた。
・そのため早くから公害訴訟が行われていた(安中公害訴訟よりも早かった?)
・戦時中は朝鮮人に強制労働をさせていた
・戦後は野反湖ダム建設もあって駅周辺はものすごい活気があった。
・ダム建設で使われたブルドーザーは解体されて,
鉄道の貨物で運ばれてきた。駅近くで組み立てなおして,
白砂川の河床に下りて,河床をすすみ,○○から道を進んだ。
・駅近くに映画館もあった。
・野反湖ダムができた後,ハイキングブームで
たくさんの観光客がきて,バス15台ぐらい列をなしていた
・バスに乗りきらない観光客はトラックではこんだ。
・観光客が捨てた弁当ガラを拾いに乞食があつまっていた。
そのあと,最近元山の旧鉄山が一般に開放されたので
いってみてはどうかと勧められました。
ということで,第2部は旧鉄山編。
ところで,なぜ太子まで線路を引いたのか?
索道の設置が,コストがかからないのであれば,
長野原まで索道を引けばいいはず。
逆に鉄道の方が,コストがかからないのであれば,
鉱山まで線路を設置すればいい話。
なぜ中途半端な太子に終着駅を作ったのか?
ここより上流は白砂川沿いでは
河成段丘が点在するようになり,
段丘がないところは峡谷状を呈します。
なので,鉄道を設置するためには,
橋をかけたり,法面を切り崩したりと
結構な大工事が必要となります。
ちなみに,太子まで白砂川沿いに
段丘面が連続的に発達していて,
そこまで大掛かりな土木工事は不要。
なので,
大規模な工事を伴う線路設置<索道<段丘面上の線路設置
という図式が得られそうです。
平坦なところでは,線路を敷くだけなので
安くしかも簡単に敷けるから、
できるだけ敷く。
それが無理なところからは,
次善の策として索道にしたと
考えるといいかなと思いました。
そういえば,索道の線の跡が
米軍撮影の戦後直後の空中写真に残っていましたので
また今度アップします。
長文になってしまい,
U先生に不評を買いそうですが。
by kumakuma1103
| 2012-07-19 00:13
| 群馬の地理・温泉