地形学の視線で見たこと,感じたこと


by kumakuma1103

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諸事情により急遽高崎サティへ
今日(30日)の夕方行くことになりました.
目当ての商品を購入後,
サティ中央の1階に,
懐かしいあの橙色のテントを発見.
まさかここにダルマ売りがあるとは思わず,
デジカメを持参していなかったので携帯カメラにて.
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男性8人,女性1人.
テントは2張.
訊ねると28日,29日と今日の3日間いるとのこと.
ちなみに訊ねた人もどこかのだるま市で見かけた人.

ダルマが僕を呼んだのでしょうか?


時代にあわせて,ダルマ売りも
変化している可能性がありそうですね.
まあ人が集まるところで売るという原則は
変わらないでしょうけど.
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by kumakuma1103 | 2011-01-30 21:00 | 群馬の地理・温泉
その後の調べで初期中山道が上里町金久保を通って玉村経由であったことがわかったので,
以下の記事は間違いも含まれています。
2012.1.6追記


一次資料にあたることができないので,
いつまでたっても素人だと思いますけど,
気になったことを.

玉村町史を読んでいると,
中山道が玉村を当初通っていたということが
一切書かれていません.
なので,書いてあることに矛盾が生じていると
思います.

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大きな問題は,例幣使が通行する前から,
五料関所があったことです.
関所があるということは,
そこが武州と上州を境する主たる街道であったことを
示すのではないでしょうか.
単なる田舎道にわざわざ関所をつくるとは思えません.

その矛盾には玉村町史ではふれていませんが,
素人からするとよくわかりません.
当時,中山道が玉村経由だったとすると得心します.

あと,伊奈忠次は確かに玉村の新田開発のために,
天狗岩用水を延伸したと思いますが,
別の理由として玉村宿を中山道の正式な宿場とするために,
宿場用水として天狗岩用水の延伸を考えたのではないでしょうか.
1650年に玉村と倉賀野が舟運で
もめ事があったようですが,
玉村の言い分は,
伊奈忠次から,
取り次ぎ(馬次)の権利を与えられたとしています.
それは宿場として認められていたからだと思うのです.



玉村町史には,
「(1610年頃)宿場としての性格はもっておらず,
開拓地にできた純然たる農村の姿であった」(上巻545p)と
述べていますが,僕にはそう思えません.
むしろ,当時は,日本海へ抜ける街道としては,
三国街道はなく佐渡奉行街道であったことから,
玉村は,中山道,佐渡奉行街道という街道の結節点として,
多くの往来があったのではないかと思います.

さらに町史では以下のようなことが書かれています.
(以下引用)
元和元年(1615年)に書かれたとされる「角渕八幡宮縁起」には「角渕町を頭となし町数九こそ定めたり」とあり,貞享三年(1686年)の「玉村八幡宮縁起」には「邑を置き村を設け,農夫は其の裏に利し,商売その間に行わる」と記されている.最初から宿場町を目途に村づくりがなされたとすれば,代官伊奈氏の遠大な企画力をさらに再評価しなければならないが,この二つの縁起は実状より誇大に表現されており,当時の玉村はそれほど立派な村落でなく,前述のような新田村であったと考えられる.
(以上引用)

う〜ん,そうではなく,
むしろ玉村は近隣よりも栄えてはじめていたというのが,
当時の実状ではないのかなと思いますし,
二つの縁起の内容は正しいと思うのです.
町史には懐疑的に書かれている伊奈氏の遠大な企画力は,
本当に遠大だったと思います.
伊奈氏は,前に書いた岡上氏ともに,
江戸時代初期の用水づくりの達人だと思いますし,
土木技術によって広範囲に農業を行うことが可能となり,
結果として国が安定したのではないでしょうか.
この人たちの仕事を地形的な観点から評価してみたいと
思うこともありますね.


まあ,二次資料にしかあたれない素人の考えですけど.

次は,玉村の落日の記事を書きたいと思います.

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by kumakuma1103 | 2011-01-27 15:42 | 街道・用水と地形

消えた一里塚の謎

2014.5.27追記
「上州中山道の地形散歩(上毛新聞社刊)」で
このあたりのことを書いているので
ご覧ください.
群馬県内の公立図書館で所蔵しています.

2012.1.6追記
その後の調べで初期中山道が上里町金久保を通って
玉村経由であったことがわかったので,
以下の記事は不正確です。



ブログではあまり学術的ではないことや,
自分自身きちんと確かめておらず
論文にすることができない内容も思い切って
書けるのがいいですね.

今日は少し確かめていない話をかきます.
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主要な街道沿いには,
その道がはじまる地点から一里ごとに,
一里塚という小高い丘が
旅人の距離の目安として
置かれていました.
例えば,高崎から烏川をこえたところにある藤塚(だるま市の少林山の対岸)には,
中山道の一里塚がきちんと残っています.
その写真はかなり前のブログにアップしています(こちら).
さて,その藤塚の一里塚は江戸日本橋から28番目のものとされています.
すなわち,日本橋から112kmというわけ.
ちなみに倉賀野宿の北の外れにも一里塚が当時あって
それは26番目の一里塚にあたっていました.
27番目の一里塚は高崎宿内にあったようですが,
早くからなくなっていたようです.

さて,ここからが謎な話になります.
まず,本庄の東にある傍示堂には,
21番目の一里塚が当時あったとされています.
そうすると,倉賀野と傍示堂間は,
26-21=5里(=20km)離れていることになります.
ところが,実際の中山道のルートをたどると,
倉賀野と傍示堂間は約16kmしかないのです.
そうなると,一里塚の数が実際の距離とあわないことになります.

こんなことは,学術的な話題ではないので,
学術誌とかには載っていないと思います.
(面倒なのできちんと確かめたことはないです)
しかし,中山道を歩く方のホームページをみると,
このことを疑問に思う方が多いらしいことはわかります.
ただ,この区間における一里塚と距離の齟齬について,
納得のいく説明をみたことがありません.


で,僕がはじめてだとおもうのですが,
合理的な解釈を書きたいと思います.
まあ,先にあげた地図をみれば,
一目瞭然ですね.
中山道を制定した江戸時代初頭,
玉村経由が中山道だったのです.

都合の良いことに,玉村経由だと,
倉賀野と傍示堂間は20kmになるんですね,これが.
新町経由の中山道のルートとの差は4km,
偶然にも一里塚1本分にあたります.


なぜ,いままでこの解釈がでてこなかったかというと,
本庄の西にある万年寺と次の勅使河原に
きちんと一里塚跡が記録として残されているからだと思います.
ただし,新町宿が,烏川と神流川の間の市として
栄えはじめたのが江戸時代が始まって50年ぐらい.
宿場として正式に制定されたのは,1724年頃といわれています.
新しい宿場だから,新町宿なんですね.
と考えれば,万年寺と勅使河原の一里塚は新町宿へいく途中にあるので
新町宿が成立してからできたと考えるのが筋だと思います.

僕の解釈の問題点は,
玉村経由の道がどこかわかっていないことが挙げられます.
まあ,平野地形における街道の原則を考えれば,
烏川右岸の埼玉県側は自然堤防上のど真ん中の道.
左岸の玉村からは例幣使街道であろうと推測できます.
地図に引いた道はそうやって引いたものです.

さて,僕の解釈が正しければ,
玉村経由の道に一里塚跡らしきものが残っている可能性があります.
地図の白抜きの星は,距離的にこのあたりに一里塚が必要というところに
にあたります.ちなみに赤色の星は文献(分間延絵図)や
現地に一里塚の記録が残っているところです.

昨年,そういうものが残っていないだろうかと
大学院の授業やら,個人的にフラフラ歩いてみましたが,
江戸時代の初期にすでに使われなくなった一里塚ですから,
まあ,あるわけがない.
なので,僕の説が絶対ただしいとはいいきれませんが,
僕の説だと,一里塚の数と距離に矛盾が生じない
という大きな強みがあります.


ちなみに,1982年に群馬県教育委員会文化財保護課が編集した
歴史の道調査報告書「中山道」には,玉村経由のことが載っていません.
少なくとも中山道制定後50年ぐらいはこちらがメインだったと思うので,
なんらかの記述が必要だったのでは思います.
ただし,群馬県史には,初期中山道は玉村経由と書いてありました.



ところで,この玉村.
今はさほど大きな町ではありませんが,
世が世なら高崎をしのぐ都市になっていたのではないかと
思っています.
その話はまた別の機会に.

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by kumakuma1103 | 2011-01-26 21:51 | 街道・用水と地形

佐野・根小屋巡検その7

前の記事に巡検話はこれが最後と書きましたが,
手元に明治40年の地形図があったので
加工してみました.
もともとは佐野橋は烏川を越える主要な橋だったことが伺えます.
一本松橋のところはまだ渡船ですね.
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by kumakuma1103 | 2011-01-24 11:52 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その6

佐野・根小屋巡検の最後の記事です.
インデックス代わりの地図.
地図中の赤いマークを押せば,
リンクで記事に飛びます.

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by kumakuma1103 | 2011-01-23 22:22 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その5

駆け足で紹介します.


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この三差路.江戸時代の道は右ですが,おそらく左の道が鎌倉街道.根拠はさほどありませんが,下和田から続く道に連続しそうなので.

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左の道を進むと,路地が細々と続きます.


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路地をさらに進むと,左手に琴平神社.今日は閑散としていました.


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さらに進むと,城南小前にでます.そこにある鎌倉往還の石碑.拡大したものがこちら.
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地図があればどの道が鎌倉往還なのかわかるのですが,
まあ僕の通ってきた道が鎌倉往還だと思います.


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国道17号バイパスを超えると,高崎市街地の下和田町になります.この道も鎌倉往還.この先で近世の中山道と合流します.




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高崎温泉脇にある神社.高崎温泉は鎌倉往還に面していたんですね.
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by kumakuma1103 | 2011-01-23 22:01 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その4

根小屋駅の先にある金井沢.
土石流の危険渓流に指定されています.
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この谷の奥にある金井沢碑には,
W君の調査の際にいっています(こちら).



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手前は烏川の氾濫原.正面奥にみえる小高いものが天井川.



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天井川の上から撮影.

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ここでは川を登って越えました.


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さて,天井川とは何か.
天井川とは,一般的な川が周囲よりも低いのに対して,
周囲よりも高くなっている川をいいます.

なぜ,そうなるのか? 

河川が運んだ砂礫が人工的な堤防の間に堆積し河床が周囲よりも高くなってしまったためです.


天井川が生じる原因を適当に考えてみました.
また勉強したら更新しますので許して下さい.
1)砂礫を供給する河川が急流で土砂の堆積が多いこと.
2)さほど大きな河川でなく,堤防で洪水がある程度防げること.
3)堆積する場所が平坦であり,浸食が少ないこと.

砂礫を運ぶ河川の条件と,堆積場の条件が揃わないとできませんが,
もうひとつ人的な影響を見逃せません.

それは,平坦な堆積場(ここでは烏川右岸)で農業がしたいので,
河道を固定するため堤防を築いたことが,
天井川ができる大きな原因だからです.
そうでなければ,川は扇状に広がって,
扇状地をつくると思います.


別の観点からいうと,
ここでは,深谷断層の断層運動によって,
もともと鏑川の扇状地だった地形が隆起して
岩野谷丘陵ができています.
そのため,丘陵を浸食する小さな河川なのに,
大雨が降れば,
扇状地であった当時の大きな礫が流れてきます.
農業をする身からすれば,
田畑に大きな礫は,かなり迷惑な存在です.
なので河道を固定するため
堤防をつくったのだと思います.

「天井川の地形」って全国的に調べれば
共通する自然条件,社会条件がありそうですね.


さて,巡検に戻ります.
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高崎商科大学.



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烏川にかかる一本松橋の上から根小屋方面を.これで再び佐野へ戻ります.


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メダカ専門店.広島ではあまり見たことがありませんが,群馬では店頭にたまに売っているのをみます.そういえば,鼻高の花迷路脇にもメダカ専門店をみたことがあります.メダカを飼うのが文化なのでしょうか?

次は再び佐野の話.
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by kumakuma1103 | 2011-01-23 21:20 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その3

続いて佐野橋.柱はH鋼ですが橋桁は木製
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この橋も鎌倉往還の名残です.
となると,この地点で渡しにせよ,橋にせよ
過去500年ぐらい人や物資の往来があったことになります.
今は,二輪車や人しか渡れない,すたれかかった橋ですけど...
逆に言えば,歴史があるからまだ残っているともいえそうです.



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佐野の対岸(右岸)も佐野窪というようです.佐野窪の田畑へいくために佐野の人が利用しているのでしょうか?渡り終えた対岸から北方向を撮影.



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烏川の河原におりて,橋を見上げてみました.河原の石は,にぎりこぶし大の礫.このサイズなら川船の通行は無理かも...



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投げ釣りをしている人が.おそらく鯉と思いますけど.


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根小屋駅.


次は天井川の話題.
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by kumakuma1103 | 2011-01-23 20:19 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その2

さて,常世神社.
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寂しい雰囲気ですが,全国的に有名な昔話の舞台です.



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「鉢木」という物語,おそらく小学生の頃よんだ記憶があり,懐かしく思い出しました.


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あけても良いというので扉をあけてみました.
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話の核心の場面.

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神社近くの烏川沿い.上信電鉄と佐野橋が手前に見えています.左手の丘陵は観音山丘陵(正式には岩野谷丘陵).丘陵と烏川低地の境界に深谷断層が走っています.

次は佐野橋.
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by kumakuma1103 | 2011-01-23 18:41 | 群馬の地理・温泉

佐野・根小屋巡検その1

いつもの発作で,
急に思い立って,
高崎市佐野・根小屋を自転車で
まわることにしました.
最後の記事に地図を載せます.

行きたくなった理由は,
1)琴平神社周辺に鎌倉往還が通っていたらしいので,
それから南がどうなっているのかを知りたかったことと,
2)最近,往還沿いにある常世神社の存在を知ったため,
それをみてみたいと思ったからです.
あとは,3)根小屋の天井川を見ておきたいということでしょうか.

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スタートは,琴平神社の入り口.右を進むと琴平神社.今日は左の道をいきます.

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琴平神社入り口の石碑下にある道標.分間延絵図にも載っている道(絵図はこちら).


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道が狭く歩道が車道と分離していないので,自転車だと少し危ない.


江戸時代,佐野の渡しがあったところ.
奥の新幹線の高架があるところは氾濫原(あるいは低位段丘か).
ここまでの道は,泥流堆積面の段丘崖沿いでした.
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塀にある看板がなければ常世神社にたどり着けません.
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常世神社に到着.神社の中は次の記事にて.
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by kumakuma1103 | 2011-01-23 18:02 | 群馬の地理・温泉