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地形学の視線で見たこと,感じたこと


by kumakuma1103

玉村宿に繁栄があったのか?

その後の調べで初期中山道が上里町金久保を通って玉村経由であったことがわかったので,
以下の記事は間違いも含まれています。
2012.1.6追記


一次資料にあたることができないので,
いつまでたっても素人だと思いますけど,
気になったことを.

玉村町史を読んでいると,
中山道が玉村を当初通っていたということが
一切書かれていません.
なので,書いてあることに矛盾が生じていると
思います.

玉村宿に繁栄があったのか?_d0179225_15113690.jpg

大きな問題は,例幣使が通行する前から,
五料関所があったことです.
関所があるということは,
そこが武州と上州を境する主たる街道であったことを
示すのではないでしょうか.
単なる田舎道にわざわざ関所をつくるとは思えません.

その矛盾には玉村町史ではふれていませんが,
素人からするとよくわかりません.
当時,中山道が玉村経由だったとすると得心します.

あと,伊奈忠次は確かに玉村の新田開発のために,
天狗岩用水を延伸したと思いますが,
別の理由として玉村宿を中山道の正式な宿場とするために,
宿場用水として天狗岩用水の延伸を考えたのではないでしょうか.
1650年に玉村と倉賀野が舟運で
もめ事があったようですが,
玉村の言い分は,
伊奈忠次から,
取り次ぎ(馬次)の権利を与えられたとしています.
それは宿場として認められていたからだと思うのです.



玉村町史には,
「(1610年頃)宿場としての性格はもっておらず,
開拓地にできた純然たる農村の姿であった」(上巻545p)と
述べていますが,僕にはそう思えません.
むしろ,当時は,日本海へ抜ける街道としては,
三国街道はなく佐渡奉行街道であったことから,
玉村は,中山道,佐渡奉行街道という街道の結節点として,
多くの往来があったのではないかと思います.

さらに町史では以下のようなことが書かれています.
(以下引用)
元和元年(1615年)に書かれたとされる「角渕八幡宮縁起」には「角渕町を頭となし町数九こそ定めたり」とあり,貞享三年(1686年)の「玉村八幡宮縁起」には「邑を置き村を設け,農夫は其の裏に利し,商売その間に行わる」と記されている.最初から宿場町を目途に村づくりがなされたとすれば,代官伊奈氏の遠大な企画力をさらに再評価しなければならないが,この二つの縁起は実状より誇大に表現されており,当時の玉村はそれほど立派な村落でなく,前述のような新田村であったと考えられる.
(以上引用)

う〜ん,そうではなく,
むしろ玉村は近隣よりも栄えてはじめていたというのが,
当時の実状ではないのかなと思いますし,
二つの縁起の内容は正しいと思うのです.
町史には懐疑的に書かれている伊奈氏の遠大な企画力は,
本当に遠大だったと思います.
伊奈氏は,前に書いた岡上氏ともに,
江戸時代初期の用水づくりの達人だと思いますし,
土木技術によって広範囲に農業を行うことが可能となり,
結果として国が安定したのではないでしょうか.
この人たちの仕事を地形的な観点から評価してみたいと
思うこともありますね.


まあ,二次資料にしかあたれない素人の考えですけど.

次は,玉村の落日の記事を書きたいと思います.

by kumakuma1103 | 2011-01-27 15:42 | 街道・用水と地形