|
カテゴリ
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2001年 07月 最新のコメント
リンク
最新の記事
検索
ファン
|
2012年 05月 21日
何やらカープ坊やは
金環日食に興奮して 朝4時起床。 周りは寝不足気味。 ![]() 机を2階に持ち上げました。 ![]() 寝ころび観察 ![]() 2012年 05月 17日
年に何回か来る,
論文書くモードに入っているため ちょっとご無沙汰です. 明日,共著者の一人に渡します. ついでに調査といろいろ 打ち合わせのため太田へ. 土曜日は静岡へ. ちょっとした息抜きになりそう. 2012年 05月 14日
ようやく,太田仕事が
形になってきました. とりあえず最初から最後まで 書ききりました. 今から帰って文献チェックと 図表と本文の対応を見直します. 静岡に行く前に 共著者に渡したいですな. 2012年 05月 12日
ご無沙汰です.
いろいろな諸事情により, 太田仕事を先にやることに. 終わりまへん. 2012年 05月 08日
今日の地図作業はこちら.
「中山道を歩く」(児玉幸多著)中公文庫の 関ヶ原宿の部分を配って, 出てくる地名を地図中で探すというものを 思いつきました. いま考えている設問はこちら. 1)本文中で下線を引いた地名・史跡を地図で探して○をつけなさい 2)1)で○した地名・史跡や本文中の内容を参照して中山道と北国街道に線を引きなさい.太い国道は必ずしも旧街道ではない. 3) 本文を読んで島津豊久の墓の位置を×で図中に示しなさい. 4)徳川家康の最初陣地を探して,家康はどのように進軍したのかを矢印で示しなさい. 自分自身は楽しそうな活動だと思っていますが, さあどうでしょうか? 裏切り部隊と大谷吉継(吉隆)の軍の配置も地形図でやると よく分かるのですが, ちょっと面倒なので今日はなし. 地形を含めた設問は今後の課題ですな. ![]() ![]() しかし中山道を平行する在来線や新幹線の名称が 「東海道」とはなかなか面白いですな. 追記 これに,どこぞの本から 東軍・西軍の配置図をのせて, 地形図に入れさせればいいかも. あらかたの地名はマークさせているので それをもとに部隊の位置推定は 難しくなさそうだ. 来年の課題にします. が,20分で終わる作業とは思えないなぁ. さあ太田仕事へ復帰. 2012年 05月 04日
以前,カトマンズの下宿先で
風邪をこじらせたことがありました。 その時,大家さんから 以下のような方法をすれば 風邪は治るといわれ, 実行してみました。 簡単です。 1.お湯を沸騰させる 2.タライなどに沸騰したお湯をいれ, 机の上に置く 3.バスタオルを 頭の上からかぶる 4.タライからでる湯気を 口から吸いこむ 以上です。 バスタオルで 顔とタライを覆って 湯気を中に閉じ込めるようにします。 湯気を吸いこんでいると 痰とか鼻水がでてくるので タライの中にどんどんだします。 湯気がでなくなったら, 湯を捨てて 再び熱い湯をいれます。 それを繰り返すと 結構スッキリします。 で,今それをやっていました。 そのあと,熱いミルクティーを飲みました。 2012年 05月 03日
説明不足の前回のブログの記事ですが,
結局ローカルな話では 根拠が希薄でだめですな. 中山道全体の一里塚の位置と距離を きちんとやってみて, そこでの共通性を導いた後に, 個別地域の問題を解決させる 必要があると思います. これ以上やったら どっぷりはまりそうなので 高梨子,高墓,関長へ 一度でかけたら, これ以上の検討はやめておきます. 太田仕事が終わらんから つぶやきました. 2012年 05月 02日
わけがわからなくなってきました。
今考えていた一里塚の順番。 28 藤塚 29 中宿 30 一里山 31 郷原 32 新堀 33 不明(初期中山道沿いか?) 34 刎石 35 山中 36 軽井沢 ところが 軽井沢の一里塚は 37番目のようです。 これもきちんと裏が取れていませんが。 これを36番目にすると あとの一里塚が全部ずれてきて おかしなことになるので おそらく碓氷峠から安中にかけて 一里塚の数と距離が あわなくなっていると思います。 となるとこの区間で4km伸ばす必要が。 なにやら玉村の話と似てきました。 だけど4km増やすのは 大変です。 1)東山道経由(九十九川右岸)の場合 28 藤塚 29 中宿 30 一里山 31 郷原 32 高梨子 33 高墓 34 丸山北 35 刎石 36 山中 37 軽井沢 #利点: ・距離と一里塚の数はほぼ一致。 ・東山道という近世直前まで使われていた 道をたどっている #問題点: ・松井田宿を経由しないこと。 ・新堀の一里塚を無視すること。 2)坂本宿周辺でうろうろするタイプ 28 藤塚 29 中宿 30 一里山 31 郷原 32 新堀 33 横川の北 34 坂本宿 35 刎石 36 山中 37 軽井沢 #利点: ・新堀の一里塚をひろっていること ・松井田宿ももちろんはいっている #問題点: 横川の北から坂本宿 坂本宿から刎石間が一里になっていないこと。 4km増やすのは結構大変だし, 道が大きく変えないと難しい。 松井田町誌(618p)だと 慶長13(1608)年「この節町割も出来御伝馬相勤候」とあるが, まだ「町割不揃にて家境竹やぶ杯これあり」という状態であった。 とあります。 と考えると,慶長7年の時は 松井田宿は街道筋になかったのかもしれません。 荒唐無稽な論なので, 書いていてちょっと嫌になりました。 ただ,僕としては, 1)の東山道を利用していたというほうが 気に入っています。 でもまあ新堀の一里塚をなくすというのも 横暴だしなぁ。 2012年 05月 02日
今日は太田仕事を一日中。
なかなか終わりません。 ところで,夕方高崎市立図書館へ。 前にも借りたことがある 「新編 碓氷峠と坂本宿」(森田与四郎著) をめくっていると 何やら一里塚についていろいろ書いている。 中山道の一里塚 松井田町新堀 32里目 高墓東の入口。俗称で旭塚。(臼井神社上) 33里目 坂本下宿東入口 34里目の塚。跡形もなし 坂本碓氷山中の堀切東 35里目の塚 となっています。 まず,高墓東の入り口は 現在伝えられている中山道から 外れるので, 前の記事で書いた初期中山道を 踏まえたものだといえます。 (なので僕が最初かもと書いた文章は 取り消しですな) が,この33里目と34里目ですけど, あまりにも距離が短すぎる。2キロちょっと。 で,著者は 「これは山道の場合は歩行半時(一時間)で一里の 現実的な法を用いたものと推定する」(p64)と かなり思い切ったことを書いています。 本当でしょうか? にわかに信じられません。 新堀と堀切間は直線でだいたい8km弱。 坂本宿を経由せず, 霧積川左岸を通れば この間に一つだけ一里塚を置けば 良いことになります。 でも,この本では 二つも置いている。 また,34里目の坂本下宿東入口に あったとする根拠が述べられていない。 ちょっと困りましたというか 気にしないでおこうと思います。 2012年 05月 02日
前のブログで
松井田町誌では「兎沢」になっていたが, 壬申地引絵図では,小字名が「亀沢」に なっていて よくわからんと書いていました. 今日,県史を眺めていたら このあたりの絵図が巻頭カラーページに のっていました. 赤い線は中山道で地図の上のほうに 関長原の地名が見えます. ![]() 拡大. ![]() 兎に読めますが, 素人目には亀でもいいかも. でも絵図だけでなく, 「安中志」にも文字で 「兎」とあるようなので ちょっとまだペンディング. 「安中志」のオリジナルを みてみたいですね. 僕は,原文をおこすときの間違いで 正確には亀沢だと思いはじめていますが. さあ,太田仕事をしよう. インド仕事は明日やる. 2012年 05月 01日
分間延絵図で描かれている
刎石(碓氷峠手前)と新堀(松井田宿の先)の一里塚は 約8km離れているので, その中間にあたる横川には 一里塚があってしかるべきですが, 絵図に描かれていませんし, 現地でも一里塚の話は伝えられていません。 で,松井田町誌をみていると, 初期中山道が横川より高いところを 通っていたことを述べていました。 地形的にいうと, 低い段丘面上にある横川を通らず, 低い段丘面より約140m高い段丘面を 初期中山道が通っていることになります。 一里塚は中山道制定とほぼ同じくして できていると思われるので 現在伝えられている中山道の位置とは 大きく異なるところにある場合があります。 横川にあるべき一里塚がないのは, この初期中山道沿いに 一里塚が設置されたためだと思うのです。 (追記 「新編碓氷峠と坂本宿」で明示していませんが おそらくそのことは考えている節がある。) では,具体的に横川を通らない 初期中山道はどこを通っていたのか? 松井田町誌には, 「安中志」と関所の同心の家に伝わる文書から 初期中山道について書かれています。 それらをまとめると, 1)横川の北にある関長原という場所に もともと正応年間から関所があった 2)文禄元年(1592)年に伊奈備前守・大久保石見守によって 横川村に関所が設けられた 3)文禄4年に井伊直勝(直政の長男)が関長原に仮番所を設けた。 4)元和8年(1622)年に目付がきたこと,翌年現在の位置に関所が設けられた。 あわせて堂峯(碓氷峠に上がるところ)に遠見番所が設けられた。 5)これにあわせて,関長原の番所はなくなった。 伊奈・大久保の関所の位置は横川村とありますが, 今の地点ではなく,井伊直勝の位置と同じ関長原だと思います。 町誌では,さらに以下の情報がありました。 ・いままで刎石から小柴をとおり, 関長原仮番所から高墓に抜けていた古道は廃止され, 堀切で3か所を遮断していたこと ・図には,堀切の名が, 西から「おぎのくぼ堀切」「わかつき堀切」「兎沢堀切」となっている。 この二つの情報が何を根拠にしているのかわかりませんが, そのあと,碓氷関所の二重の取締範囲をしめす 遠御囲,近御囲のなかで 北通近御囲の地名が示されています。 これは,「安中志」によるものですが, 西に向かって, おぎのくぼ-わかつき(堀切の端)-兎沢(堀切の端)-小山沢(横川村と五料村境) とあり,これらを結んだ範囲が取締りの範囲だったことがわかります。 ここには,兎沢とわかつきのところに, 堀切の端とあるので, 先述の町誌の記述の中で書いてある 堀切があったということは どうも確からしいといえそうです。 で,文書館にある壬申地引絵図で 字名を確認してみようと思い立ちました。 調べたいことがあると調べないと 居ても立っても居られない性格なので すぐにでかけて確認したところ 東から西に向かって「上関長」「関長」「関長下り」 「若月」の地名が 高位段丘面上にありました。 絵図と地形図の同定は またあとでやりますが, ともかく絵図に「安中志」ででてくる地名が 小字名にでてきたのでうれしくなりました。 が,しかし一番東にあるべき「兎沢」がない。 小山沢はいまでもあって,それよりも西なので 当時の横川村村内にあたります。 わかつきと小山沢間でめぼしい地名は, なんと「亀沢」。 冗談でなく,本当に「亀」 「亀」を「兎」と間違えることが 本当にあるのか? 文書館で苦笑してしまいました。 まあそれは確かめようがないので, 先に進みます。 また地引絵図には 小道ながら関長-若月と続く道があるので これが初期中山道だと思います。 大学へ行く途中に, 急に思いついたのは, 東山道は碓氷川沿いではなく, 鼻曲火砕流台地を横切って, その北の九十九川沿いを進んでいたはずと 思いだし, 急遽,大学図書館で歴史の道「東山道」を 借りてきました。 それをみると, ずばり初期中山道のルートに 「東山道」が引かれていました。 そのあと,東山道は峠をこえて 九十九川水系へ入り, 松井田城の城下町(高梨子)を 通ります。 考えてみたら当たり前ですよね。 正応年間から関長原に 関所があるんですから。 ただ急いで付け加えておくと, 松井田の集落は,正応年間からあります (碓氷峠の熊野神社の古鐘の銘)ので, おそらく,戦国時代は,碓氷峠から道が二手に分かれて 九十九川水系をとおるものと碓氷川沿いを そのまま下る道の二つが並立していたものと思います。 あと,坂本宿は寛永2(1625)年に 地割が完成するのですが, それ以前から坂本の地名は, 文書にでてきます。 坂本宿ができる前の坂本は その少し下にある原村であっただろうと 町誌では推定しています。 それはそうかもしれませんが, 関長原に伊奈と大久保が 番所を置いたのであれば, 原村を経由させるのは ちょっと無駄が多い気がします。 中山道制定当初は 原村も経由しなかったのではないかと 思うのですが。 一里塚の距離から このことが示せればいいかもしれません。 原村を通るとなると だいぶ迂回することになります。 ではまとめを。 1)東山道は坂本から,関長原,高墓を通って, 鼻曲火砕流台地を横切り 九十九川右岸の高梨子を通り 安中へ続いていた 2)正応年間には関長原に関所が設けられており, 松井田の集落もあった 3)文禄元(1592)年に伊奈備前守・大久保石見守によって 横川村(おそらく関長原)に関所が設けられた 4)文禄4年に井伊直勝(直政の長男)が関長原に仮番所を設けた。 5)慶長9(1604)年に初期中山道のルートと一里塚が整備された。 6)元和8(1622)年に目付がきたこと,翌年現在の位置に碓氷関所が設けられた。 あわせて堂峯(碓氷峠に上がるところ)に 遠見番所が設けられ,関長原の番所はなくなった。 おそらくこの時中山道も現在伝えられているルートになった。 8)寛永2(1625)年に坂本宿の地割完成 1620年代のルートの変更,坂本宿の設置,碓氷関所の設置は 数年後から本格的に開始する参勤交代にむけての準備なのでしょうか? あと,個人的に面白いと思うのは 中世までの道「東山道」から 近世の道「中山道」に変わる過程が なんとなく追えるところでしょうか。 あとは,伊奈さんがまたでてきたこと。 どこでも顔をだしてきますな。 侮れませぬ。 あと触れませんでしたが, 文書では岡登君もでてきました。 地図があれば わかりやすいでしょうが 自分への備忘録なので すみません。 いずれつくります。 作らざるをえない事情があるので。 2012年 05月 01日
授業ではお伝えしましたが,
明日の巡検は雨予報のため中止します. 別の日にやるかどうかはまた相談させてください. 2012年 05月 01日
自分自身晴れ男だと
思っていて 数日前の天気予報でも 明日は曇りだったのに, 今朝予報をみたら, 雨じゃん。 しかも90%。 昼まで予報をみますが, どうなることやら。 2012年 04月 30日
どうでもいいことにはまってしまいました.
茶屋本陣が高崎〜軽井沢間に多いと書きました. (こちら) 松井田〜碓氷峠間の一里塚探しをしていると, 奇妙なことに気づきました. 分間延絵図に茶屋本陣のすべてが 描かれていないことです. はじめは五料茶屋だけがないのかと思っていました. その理由として, 絵図が書かれていた1800年代初めに ちょうど五料茶屋本陣で火災があったからなんだと 勝手に思っていました. で,ほかの茶屋本陣がある 場所の絵図をみてみました. これがない. 幕府の命で行われた 分間延絵図に茶屋本陣が描かれていない ということはどういうことなのか? 絵図が描いていた当時は まだ茶屋本陣がなかったのか? あるいは幕府の公認ではなかったのか? あるいは例幣使と何か関係があるのか? あまり触れてはいけない部分のような 気もしてきました. 前に述べた茶屋本陣の地域的な集中とも つながってくるような気もします. 2012年 04月 30日
一里塚ネタは,
もうやめようと思っていたのですが, 新たなターゲットができたので, またやる気に. 実は,松井田の新堀の一里塚の後, 京都方面の一里塚は分かっていませんでした. いままでなんとなくないなぁと 思っていたのですが, 松井田町誌をみていると, 制定当初の中山道は, 碓氷関所のもっと北だったとの記述が. 関所を作る関係で道を移動していました. これで一里塚がなかったんだと分かりました. で,そうなるともともとの中山道はどこを通って どこに一里塚があったのか? とりあえず米軍の空中写真と あとは地籍図をみてみるか. 碓氷関所の前身も 初期中山道沿いにあったとか. 何やら楽しげな感じになってきました. 問題は上信越道やらゴルフ場になっていて もともとの地形や土地利用が残っていないこと. ここの場合, 一里塚が人々の記憶から消えている理由は簡単です. 初期中山道を通過することは関所破りになるから だれも通らなくなったのです. 2012年 04月 27日
2012年 04月 26日
とりあえず,来週の地図作業のたたき台
1.旧中山道のルートを図中に入れなさい 2.碓氷川左岸と中山道の間の崖地形に色を塗りなさい. 3.新堀周辺の等高線(300,310,320)に色を塗りなさい 4.新堀の崖地形と旧中山道の間について,水田と,桑畑/畑の 二つに塗り分けなさい 5.A-A'断面図を書きなさい.崖地形では等高線が省略されています.上下の等高線をみながら,省略されている等高線を考慮すること. 6.断面図に中山道,線路,水田,桑畑/畑,碓氷川,高速道路を書き入れなさい. 7.段丘上は水が得にくい場所であるのに,ここではなぜ段丘面上で水田ができるのかを,上記の活動から考えなさい 8.段丘面上の中山道のルートの特徴について述べなさい.また,松井田宿には,江戸時代において宿場用水が流れていた.どのようにして水を得ていたのかを宿場の立地条件から考えなさい. 9.河川の攻撃斜面は,側方浸食による崖の後退が発生しやすい.碓氷川左岸について,攻撃斜面に色をつけなさい. ![]() 今回のちょっとしたアイディアは, 等高線を教えるときに 邪魔な「土がけ」の標記を逆手にとったこと. 崖は急勾配過ぎるので 等高線が省略されます. 等高線の省略は教えるときに困るので, いつも等高線が出ているところを探して, 断面図を書いてもらっています. 横川ー松井田間の左岸は 等高線が省略されている 「土がけ」が連続しているので, むしろ「土がけ」が段丘崖である ということを理解してもらいたいと 思います. 2012年 04月 25日
某仕事の関係で
一般向けに出すパンフレットをチェック中。 詳しくはかけませんが, 膨大なデータの中から どういうデータを提示するか, 見せ方をするのかということは 人によって全然違うんだなと思いました。 僕の考え方がいいかどうかは わかりませんが, 博物館業務や授業準備で このような作業を繰り返ししてきたので ちょっとは自分はマシだと思うことにして, たたき台の原稿を 赤だらけにしてしまいました。 大事なことは こちらがどのようなデータを持っているかを 見極めたうえで, 読み手がどのようなデータを求めているかを 考えながら選ぶことだと思います。 あとは少ない文字でできるだけ多くの情報を 得られるようにすること, 言葉の繰り返しを避けること。 まあもう2か月もしたら 何のパンフかはわかると思います。 2012年 04月 23日
年のせいか,
途中でやる気が減退. とりあえず授業で示す図表だけは パワポにいれて完成. 文章は明日考える, あるいは口頭で説明するか. 2012年 04月 23日
この絵図は倉賀野宿の絵図とともに
僕が好きな絵図. ![]() 草津宿を描いたモノ. ここは東海道との合流地点にあるので 東海道シリーズの草津宿もありますが そちらは興味なし. なぜ,好きなのか? ![]() 草津宿を流れる草津川の特徴 つまり天井川を きちんと描いているから. 宿場の家屋の屋根よりも高い位置に 河道があるのがわかりやすい. 河床の地質も砂だし. ちょろちょろの水量もいいですな. 授業準備はこれからやまだ. 草津宿の写真はこちら ![]() 絵図は僕が撮影した地点の対岸から描いていると 思います. 2012年 04月 23日
明日の中山道の授業に向けて準備中.
1からつくるのは結構大変. 過去の本や論文から図を持ってきますが いい図がない. まあ自分でつくれっていう話ですな. ・花崗岩の分布 ・琵琶湖に注ぐ河川(特に下流の分流と放水路) ・びわこの湖岸線 ・天井川の位置 ・湖底等深線, ・活断層の位置と変位の向き, ・20, 50, 100,200mの等高線, ・山地と平野の境界, ・古琵琶湖層群の分布 +中山道+東海道のルートと宿場の位置 こういうのがあるといいですなぁ. あとは花折断層,比叡山,堅田断層,琵琶湖,草津,信楽高原までの 地形地質断面図. 琵琶湖の西側が沈んで,東から土砂が埋積している様子を示したい. 今日はかなりエンドレスな予感. 今年は出来合いの地図で代用して 来年の課題にします. 2012年 04月 22日
面倒なので写真のみ。
中山道の帰りいってみました。 結構いいところですね。 ゆっくりいきたいと思います。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 階段に使われている石は 火砕流が固結したものか。 石垣は本当にきれいでした。 2012年 04月 22日
2012年 04月 22日
中山道から数十mほど離れたところに
五料の茶屋本陣が両並びに二つあります。 中山道が東西に走っていて, 西側の茶屋本陣を「お西」, 東側のそれを「お東」といいます。 中山道から「お東」へいく小道を 線路が通過する踏切を「お東」踏切といいます。 お西につながる小道も昔はあったようですが, 今は踏切もなく線路に分断されています。 ちなみに茶屋本陣とは,大名や旗本,公家などの 休憩場所として使われてきました。 宿泊はしなかったようです。 考えてみたら, 茶屋本陣は上州というか 高崎から碓氷峠の間が多いですな。 ■高崎宿 ・上豊岡茶屋本陣 ■板鼻宿 ■安中宿 ・原市茶屋本陣 ■松井田宿 ・五料茶屋本陣 ・横川茶屋本陣 ■碓氷関所 ■坂本宿 実は僕が昔住んでいた東広島市西条は 西国街道の宿場町なんですが, 本陣のことを御茶屋といっていました。 そこでは宿泊もしていたので 少し意味合いが違います。 中山道のほかの地域では 茶屋本陣があるのか ちょっと気にしたいと思います。 少なくとも日本橋から高崎まではないと 思います。 昔はどこでも整備されていたのに なくなってしまったのか? あるいは高崎→碓氷峠区間だけ 整備されていたのか? どうなんでしょ? ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ここでトイレ休憩を入れようと思います。 2012年 04月 22日
高い段丘から低い段丘へおりる段丘崖の途中に,
茶釜石なるものが。 ![]() ![]() 確かにいい音がしました。 このあたりは溶結凝灰岩のはずなので サヌカイトに近いのかも。 まあ素人なので本気にしないでください。 ![]() ![]() ![]() 宿場用水は比較的知られていますが, 実は街道沿い脇も用水路が 並走していることが多いと思います。 もしかしたら中山道を整備する際に, 農民を格安で徴用するために, 農業用水の整備も併せて行うことで 彼らにとっても得になるようにしたのではないのでしょうか? 単なる思いつきですが。 ![]() 「お東」踏切ってなかなか斬新な名前ですが, 歴史があるんですな。 それはまた次の記事で。 2012年 04月 22日
そのあとは,折り返して東へ向かって,
信越線と平行に歩きます。 ![]() ![]() 中山道を横切る踏切の名前は いつも「中仙道」なんですよね。 正式には「中山道」です。 ![]() ![]() 歴史的な由来は知りませんが。 カープ坊や1号は虫探し。 碓氷神社脇。 ![]() 実は微妙に中山道ではないんですが, 中山道沿いに踏切がないので 少し迂回したところにこの神社があります。 ![]() どうでもいい話ですが, ここは一度歩きたかったところ。 梨子の木というところ。 わざわざ高い段丘へのぼっています。 碓氷川の河床へ降りるという手段もあったけど それをしていません。 少し回り道+高低差となるけど, 仕方なかったのでしょうな。 ![]() 枝垂桜が満開。 ![]() きれいに桑の木が剪定されていますが いまでも桑の葉使っているんでしょうか? ![]() ![]() ![]() ミツマタの花。 ここまで 2012年 04月 22日
土曜日は,今度の巡検の下調べ。
中山道シリーズの巡検も これで4回目。 初年度は,軽井沢→横川 2年目は,倉賀野→新町 3年目は,安中→高崎。 受講生は毎回変わりますが, 僕自身が同じところを歩きたくないので 歩く場所を変えています。 さて下見で調べるポイントは 1)どこで何を見るようにするか? 2)トータルでどのくらい時間がかかるか? 3)どこで休憩(トイレ含)がとれるか? 4)ルート上で危険な場所はないか? ということでしょうか? 下見の旅程 10:18横川発 10:43関所発 11:07足跡通過 11:18碓氷神社前の踏切通過 11:45五料茶屋本陣着(昼食) 12:30五料茶屋本陣発 12:43久保宿通過 12:55製糸踏切通過 13:36松井田駅着 ![]() 横川駅前。ちょっと寒かったですが, 満開の桜。 まずは少し京都側へいき, 横川の茶屋本陣,碓氷の関所跡へ。 ![]() ![]() 関所の入り口。 ![]() 関所の東門 ![]() ![]() ![]() 今は西から入れるようにしているので 当初は反対向きでした。 ところで,この関所跡には3回きましたが, はじめて資料館が開いていました。 ![]() ![]() 関所手形など。 平日は開いていないのでどうするか? 2012年 04月 21日
最近はあまり報告していませんでしたが
細々と畑をやっています。 現在の様子 ![]() ![]() 石灰をまいてあら起こしした状態。 今畑には かき菜と玉ねぎ,ジャガイモ 収穫できているのは かき菜だけですが。 玉ねぎ ![]() 至極順調です。 ジャガイモ こちらも至極順調。 ![]() 連休を使って 夏野菜を一通り植える予定。 今日は 朝は今度の中山道歩きの下見で約10km程度歩き そのあと,畑のあら起こしをして, 最後にサッカーをしたので 結構疲れました。 下見の話はまたあとで。 ちなみに5月2日に 横川から松井田間を歩きます。 僕の知り合いの方なら 参加しても構いませんので ご連絡ください。 2012年 04月 20日
地質:花崗岩→深成岩→まさ土
断層:琵琶湖の非対称構造の原因 琵琶湖東岸は浅い湖底 人の活動: 山地地域:近世の樹木伐採→はげ山化→まさ土の流出 平野地域:条里制(古くからの水田化) 両者をつなぐもの→草津川 草津川の特徴:土砂供給大→本来なら自然堤防帯の地形場→河道が移動しやすい→ すでに水田化されているので固定化をはかる→堤防の嵩増しで対応→河道の砂の堆積 →天井川の成立=人的影響+地形・地質 カプス状と円弧状デルタの成因→波浪+潮汐なしなのになぜか,人的影響か 現在:放水路の整備により草津川の下流は廃川 →ならいまなら旧草津川のトレンチ調査ができそうだな。 授業のアイディアなので ほっておいてください。 つながりを明確にする必要がありますな。 これをもとに図表を整理していきます。 あとは,琵琶湖疏水の話があればいいかな。 琵琶湖の北進と信楽焼の粘土層の関係もいれるか。 さきほどネットサーフィンしていたら 某局を退職された方々の消息が分かりました。 同じような職のようですね。 しかし出身地が入れ替わるって皮肉な話だな。 某番組で岡山の カープファンさんの投稿コメントは なかなか面白いですなぁ。 院生の頃, 自分はコーヒーを淹れろと 岡山のカープファンさんに 結構言っていたんですね。 彼が昔やっていた ブログの面白さを 思い出してしまいました。 2012年 04月 19日
今回の日本地誌では,
日本の世界遺産を事例に 自然や人々の暮らしをみていこうと 思っています. で,今日の授業では 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 悪名高いいつもの地図作業は, 今帰仁城跡でやろうと思っています. google画像をみると 城壁も認識できるので, 断面図をとる前に 城壁を地形図に書き込ませてから, 断面図書いてもらおうと思います. 当たり前ですが どういう傾斜のところに 城壁をつけているのかという設問で. ![]() ![]() 以下の想像図は, 今帰仁村のHPより. ![]() 今帰仁村にはいったのですが, 城壁だけ見ても仕方ないと 立ち寄らなかったことをかなり後悔. いつでもなんでもみてやろう精神は 必要ですな.
|